1:海江田三郎 ★ 2015/09/23(水) 10:59:58.34 ID:???.net
http://courrier.jp/news/archives/3806
すべてが「商品」化されていく日常を、私たちは望んでいるのか。社会の在りかたを今改めて考えるべきだと、著名教授は訴える。マイケル・サンデル ハーバード大学教授。政治哲学者。ソクラテス式問答法を実践した講義で有名日本でもテレビ番組『ハーバード白熱教室』が話題になった。私たちが考え直すべき問題があります。それは「社会におけるお金と市場の役割は何であるべきか」というものです。 今日、お金で買えないものは、ますます少なくなっています。たとえば、カリフォルニア州サンタバーバラで懲役刑を言い渡されたとします。 刑務所の一般監房が気に入らなかった場合、お金さえ出せば監房をアップグレードできるのです。本当ですよ。いくらでアップグレードできると思いますか? 1日90ドル(約9000円)です。では、テーマパークに行ったとしましょう。人気のアトラクションでは、長い列に並ぶのが恒例でした。でも今では多くのテーマパークで、 追加料金を払えば列の先頭に割り込めるシステムがあります。こうしたことは、テーマパーク以外のさまざまな場面でも見られるようになっています。お金を払えば、行列の先頭に立つことができるのです。 たとえば、ワシントンで議会を傍聴したいと思ったとします。でもそのために長蛇の列には並びたくない場合、今では業者に頼むことができます。 料金を払うと、その会社はホームレスや仕事が必要な人を雇い、列に並んでもらうのです。最前列の席を確保するために、必要なら夜を徹してでも並んでくれます。市場におけるお金は、より大きな組織の在りかたを左右することもあります。米国の戦争を例に見てみましょう。イラクとアフガニスタンには、 米軍より民間の軍事会社の部隊のほうが多く展開していました。これは、戦争を外注することについて国民が議論した結果ではありません。自然にそうなったのです。過去30年の間に私たちは静かな革命を経験しました。私たちはほとんど気が付かないうちに、「市場経済」を持つ社会から、「市場社会」そのものになっていたのです。 両者の違いはこうです。「市場経済」は一種のツールです。生産活動を組織する、効果的で価値のあるツールです。けれども「市場社会」というのは、すべてが売り物になる社会のことです。市場的な価値観や理論が生活のほぼすべてを支配する社会。なぜこれを危惧するのか? 危惧すべきなのか? この問題について考えたいと思います。
すべてが「商品」化されていく日常を、私たちは望んでいるのか。社会の在りかたを今改めて考えるべきだと、著名教授は訴える。マイケル・サンデル ハーバード大学教授。政治哲学者。ソクラテス式問答法を実践した講義で有名日本でもテレビ番組『ハーバード白熱教室』が話題になった。私たちが考え直すべき問題があります。それは「社会におけるお金と市場の役割は何であるべきか」というものです。 今日、お金で買えないものは、ますます少なくなっています。たとえば、カリフォルニア州サンタバーバラで懲役刑を言い渡されたとします。 刑務所の一般監房が気に入らなかった場合、お金さえ出せば監房をアップグレードできるのです。本当ですよ。いくらでアップグレードできると思いますか? 1日90ドル(約9000円)です。では、テーマパークに行ったとしましょう。人気のアトラクションでは、長い列に並ぶのが恒例でした。でも今では多くのテーマパークで、 追加料金を払えば列の先頭に割り込めるシステムがあります。こうしたことは、テーマパーク以外のさまざまな場面でも見られるようになっています。お金を払えば、行列の先頭に立つことができるのです。 たとえば、ワシントンで議会を傍聴したいと思ったとします。でもそのために長蛇の列には並びたくない場合、今では業者に頼むことができます。 料金を払うと、その会社はホームレスや仕事が必要な人を雇い、列に並んでもらうのです。最前列の席を確保するために、必要なら夜を徹してでも並んでくれます。市場におけるお金は、より大きな組織の在りかたを左右することもあります。米国の戦争を例に見てみましょう。イラクとアフガニスタンには、 米軍より民間の軍事会社の部隊のほうが多く展開していました。これは、戦争を外注することについて国民が議論した結果ではありません。自然にそうなったのです。過去30年の間に私たちは静かな革命を経験しました。私たちはほとんど気が付かないうちに、「市場経済」を持つ社会から、「市場社会」そのものになっていたのです。 両者の違いはこうです。「市場経済」は一種のツールです。生産活動を組織する、効果的で価値のあるツールです。けれども「市場社会」というのは、すべてが売り物になる社会のことです。市場的な価値観や理論が生活のほぼすべてを支配する社会。なぜこれを危惧するのか? 危惧すべきなのか? この問題について考えたいと思います。